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鮫島浩工務店『エコ大工三兄弟物語』

” エコ大工 ”は鮫島浩工務店の商標登録です。

はじめまして



皆さん初めまして

京都で大工をしております鮫島と申します
鮫島という名字を聞くと私たちと初対面のかたは名前の印象から怖そうだとか色々と妄想を広げてしまいがちだそうです・・・

テレビでは悪役や厳つい役柄でしかつかわれない名前だからでしょうか?

(鮫島って名前は鹿児島県ではメジャーな名前なんです中には良い名前ですねって言って下さる方も多いんですよ^^¥)

中には映画で新宿鮫って言う物も有りましたっけ?真田拡之さんの映画でしたね。
世間的にイメージが良くないのかも知れないですが、本当の僕たちを知ってもらいたいと思います。

三兄弟の性格を簡単に説明すると曲がったことが嫌で筋の通らないことは嫌な性格です。
しかし頑固で実直な反面、柔軟な考え方を持っていて状況に適応出来る所も持っていると思います
スイッチのON。OFFがしっかりしていると言うことでしょうか?

三人は性格が似ているところもあり、遊ぶ時も仕事の時も一緒でした。

所帯を持った今でも三人で釣りに行くこともよくありますし、昔からそうでした。

若い頃にはつき合っている彼女を連れて6人で遊びに行ったこともありました。

又仕事の互いの意見をぶつけ合いより良い方法や考えを絞り出す為に家に集合して夜遅くまで話し合う事も有ります。そんな三人を育ててくれた両親の紹介からします。

父が鹿児島の垂水という桜島のふもとにほど近い生まれで鹿児島で鮫島と姓名をたどると元は薩摩の侍だったとか・・・そして先祖は一つしかない???と言う話を聞いたことがあります。

そうだとすると今の世の中に存在する鮫島さんはみんな親戚になると言う事です¥^^¥
世間の鮫島さんからのお便りお待ちしております^^

さて私たち三兄弟を育ててくれた父と母の事から簡単に話しますと父親ですが父が7才(昭和19年)の時に両親を失い戦後間もない食料さえもままならない時代に年の離れた長男夫婦に育てられて厳しかった昔話をよく聞かされました。

昔の生き延びる為の知恵みたいな事や苦しくもおかしな笑える話色々有りました。
そして母親ですが母は福井県の海沿いの旧家生まれであまり辛かった昔話は聞かされませんでしたが今になって思うことは母は天然だと言うことです^^¥

そんな両親によって三兄弟は育てられたのですがやはり長男の私は子供の頃口癖のように言われた言葉が、これです・・・
「あんたは長男やさかいに、ボーっとしてたらあかんのやで!」

なにかにつけて「ボ~~っとしてる」と言われ、自分ではそんなつもりは無いのにそう言われてました。

やはり世間一般的に長男はボ~~~っとしているんでしょうか?

しかし中学時代は野球に明け暮れ強肩センターでレギュラーを取りそして高校時代にはあのラグビーの強豪伏見工で2年生の時に一年間レギュラーで公式戦に出てラグビーに青春の全てを燃やしました。卒業後有る建築会社に就職するも大工に成りたいという気持ちを捨てられず半年で退社、大工道に入門そこから5年間厳しい修行の毎日でした。

ダラダラと10年やっても身に付かないが5年間を死ぬ気でやれば良いと思って遊ばず丸5年間は仕事漬けでした。この続きはエコ大工三兄弟物語で・・・

エコ大工三兄弟のはじまり

子供の頃の次男は負けん気が強く何時も長男の私と兄弟喧嘩してましたね
次男と言うことでストレスの溜まる部分も多かったんでしょうね。
年齢も年子でしたのでよくぶつかり喧嘩しました。

しかし中学時代は私と同じ野球部でセカンドを守り小柄ながらにも俊足で有望でした。
京都商業(現在の京都学園)に入り一年生の時ラグビー部に入り青春していたようです(兄目線)

そして次男が卒業後大工に成ると言うが長男の私が半年間就職したせいで、まだ弟子入り半年の私と弟を新しく弟子に取るのが難しいと言うことでいったん就職することに成りその1年後に晴れて大工入門しました。

三男は私と4才違うので喧嘩の対照ににもならず遊び相手にも頼り無いので子供の頃に一緒に遊んだ記憶があまり無いですが、しいて言えば何時も僕たちの後ろを必死で付いて廻っていて、同じように付いて来ていました。

ある日みんなが木になっているミカンを切って遊んでた時に三男も落ちていたカミソリでミカンを切っていて指を切り落としそうになったことが有りました。

中学時代の事も私が高校に進学していたのであまり知りませんが、それなりに良いも悪いも友達には恵まれていたようです。

高校は私と同じ伏見工の建築科に進み三年間を全うしたようです。
三兄弟の中学卒業時の成績は一番良かったみたいです^^

今思えば男三人兄弟わんぱくでしたね、よく育てて頂きました

両親に感謝です。

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大工入門

鮫島浩明。

昭和61年大工入門

日当3000円で遊ぶことさえ許されない
仕事漬けの5年間の修行を全うし年期明け。

修行の期間内に、一年半遅れて昭和63年。
次男博次も入門
大工道を磨き一人前になる為に
激しい競争が始まる。

その二年半後、平成二年。
三男純一が建築科を卒業し大工道に入門。

また、同じ親方の元で
兄弟子に追いつけ追い越せと
腕に磨きを掛ける毎日であった。

鮫島浩工務店のルーツ

私は年期明け後、平成3年。
同じ大工であり
違う工務店に勤める実の父親(55才)の元へ
親子船のように連れ添う。

その後、
次々と弟達が合流する

しかし世の流れには逆らえず、
バブル絶頂時期も終わりを告げ
どんどん不景気になる中、
あらゆる業種の会社が倒産して行き
挙げ句の果てには銀行までもが破綻してしまう・・

このころ、毎日の出来事やニュースを見ていた私は危機感を覚える。

同じ工務店に親子四人が勤めているこの状態に不安を覚え
工務店を飛び出し世に出る。

平成6年、人脈を広げる為に
毎日知らぬ大工の応援で
食いつなぐこの期間、
約二年間は辛い毎日でした

朝現場に行くと
年が若いせいもあり
仕事が出来ないと決めつけ偉そうな言い方をされ
各現場で出会う熟練大工さんに気を使い・・・

まだ26才の社交的になれなかったあの頃は、
自分の内側に全て抱え込み

家に帰っても
赤ん坊を抱く妻にも話せないまま
いつも胃薬を持ち歩いていました。

不景気と、知らぬ工務店の応援ばかりでは仕事の無い時の方が多く
長女がまだ乳飲み子で自宅購入していた自分は
ローンとままならない生活費に
生きる怖さを知った時でもありました。

事実上、父親は年を取りすぎていたし
兄弟の中では私が長兄だったこともあり
兄の責任でこの工務店を飛び出したこの瞬間に
鮫島浩工務店のルーツが始まったのかも知れないです。

本当に良い家造りを目指して

飛び出した二年後
平成9年。

有る人物に出会い
滋賀県が本部の平和堂様が経営する
コンビニのメンテナンス業務にも努める約二年間

その後、個人のお客様の木造工事や
店舗などあらゆる仕事を紹介してもらうなど口コミの業務で今に至る。

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その後、同じく平和堂様の経営する
CDのTSUTAYAさんのメンテナンス業務にも携わり今に至る。

口コミの業務ほど信頼されて責任の有る仕事は無いと痛感している


紹介者の方の口添えが有るからこそ、
こんな小さな工務店に依頼して下さるのですから
毎日を有り難う御座いますの気持ちで頑張っております。

何よりお客様に喜んでもらう為に又次の紹介を頂けるように頑張っております

 

現在
個人お客様多数、平和堂様(TSUTAYAメンテナンス業務)建築会社数社にお世話になりながら兄弟三人で力を合わせて頑張っております。

年老いた父親は数年前に引退をして母親と共にスローライフを楽しんでいます。

私たち兄弟三人は、今まで培ってきた技術を活かし、
お客様のためになる本当に良い家作りを目指しています。
特に地球環境の貢献のための積極的な古材の利用の推進、
子供達の未来の健康を考えた無垢材、漆喰をはじめとした土壁などの自然素材の活用をしています。


                                  (お客様大満足の京都西陣のT邸

大工出身であることゆえの不器用さや無骨さはございますが
職人ならではの、真直ぐな心と技術での幸福になる家造りをお届けしています。

兄弟三人で本当に良い家造りを目指して今後も沢山のお客様に
大工道の技術と心を提供していきたいです。

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