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魂の鉋

千代鶴貞秀作 「乱菊」

匠の道具 魂の鉋とは?
 現在、大工の技術はどんどんと失われていっています。それと当時に、大工の道具も活躍の場をなくし、若い大工だと鉋を使ったこともないという状況が起きています。
しかし、京都鮫島浩工務店のエコ大工3兄弟は、大工の技術、大工の道具も未来へ継承して行きたいと考えています。道具を大切にして、手入れをして長く使う。それが大工としてのたしなみです。大工の魂のこもった道具、ここでは鉋をご紹介して行きます。
千代鶴の名前由来と系譜
 鉋鍛冶として、また鉋を芸術品までに昇華させたのは千代鶴是秀(これひで 本名:加藤廣)というのは広く知られています。さて、この是秀の祖先は刀工(刀鍛冶)です。その祖先の歴史を少しさかのぼります。
江戸時代後期安永から明治後期(1772年~1912年)頃に復古刀全盛期を作った新々刀の祖水心子正秀は南北朝を理想とし古伝模倣を推奨しました。

この水心子正秀に学んだのが、米沢藩の上杉家の刀工であった曾祖父の加藤和泉守国秀と祖父の加藤八郎です。祖父は独立後、長運斎綱俊を名乗りました。綱俊の兄には刀工の綱秀(または綱英)がおり、綱秀の子で綱俊に弟子入りしてのちに幕末屈指の刀鍛冶の名工と言われた固山宗次がいました。また、綱俊は高橋長信、青龍軒盛俊らの優れた多くの門人を育成し、備前伝では水心子一門を凌ぐほどの勢力になっていたと伝えられています。綱俊自身はは、正秀に学んだのち、大阪、熊本と修行の旅に出ており研鑽を積んでいます。

また、初代綱俊は処世でも大変長けた人物と伝えられています。自分の姉の子である加藤政太郎が鍛冶に優れた才能を見出し、武蔵大掾藤原是一に始まる刀工の名門である石堂家の石堂重二郎の養子にし、七代目石堂運壽斎是一を名乗らせました。この七代目石堂是一は江戸幕府の御用鍛冶師・下坂近次郎などに次ぐ幕府屈指の名工となりました。

この綱俊一門の栄華の最絶頂は、江戸において、「綱俊、宗次、是一などの一門はいずれも備前伝に長じた幕末新新刀の良工である」と評価され、また明治6年(1873年)にウィーンで開かれた万国博覧会に政府の選抜によって、七代目石堂是一、固山宗次、栗原信秀の三人が日本刀を出品し、刀工としての栄誉を授けられことです。

さて、千代鶴是秀は明治7年(1874年)に、この鍛冶のエリート一家の三男として生まれたわけです。三男として誕生したとき、父は38歳、長男 新は16歳、次男 義次郎は11歳、長女 順は5歳、祖母は71歳でした。この時七代目石堂は55歳、八代目石堂は35歳でした。千代鶴是秀が誕生する50日前に八代目石堂の長男の眞勇美(九代目石 堂)が誕生していました。そして明治7年というこの年は、刀を身に帯びてはいけないという廃刀令が施行され、刀鍛冶の生活に決定的な影響を与えた年でもあ りました。刀鍛冶にとっては死活問題である年に千代鶴是秀は生まれたのです。

廃刀令を受け、長男新は次第に刀を鍛えることに無気力になり、のちに地方で行き倒れてしまいます。次男の義次郎も政治の世界に傾倒して行き、父の元を離れます。そして、父も中風(現代の脳梗塞などにあたる)になり半身不随の身になってしまいます。まだ千代鶴是秀は10歳に満たないころの話しです。

一方、石堂家は、明治維新前後から長雲斎一門の中核として、八代目石堂が支えていました。廃刀令の2、3年前から近くの農家の求めに応じ、鎌や鍬を打ち始めていました。これを野鍛冶または農鍛冶といいます。刀匠として上杉家のみならず、幕府の御用刀鍛冶を勤め、万国博覧会に選ばれて刀を出品した八代目石堂に
とって内心忸怩たるものがあったのでしょう。評判が広まり、鉋や鑿なども鍛つようになりましたが、請われても決して銘を切ることはなかったと言われています。

明治17年6月4日加藤廣こと千代鶴是秀は11歳の時に、母キクに連れられて鍛冶職として入門するために北新門前町の石堂是一宅を訪れました。七代目石堂63歳、八代目石堂42歳でした。そして、七代目に師事し、八代目に技術の指導を受けることになりました。この二人の石堂から

「名を恥ずかしめぬ鍛冶職になるという以上、決して金銭を頭に置いてはならぬこと。そして常に修業を怠らぬこと」

を言い渡されました。この言葉を千代鶴是秀は忠実に生涯守り続けました。しかし、この石堂家にも明治24年10月、突然の不幸が訪れます。八代目石堂がチフスに感染して49歳で急死しました。そして1ヶ月後、今度は気力を失った七代目石堂が後を追うように亡くなったのです。70歳でした。このとき千代鶴是秀は18歳でした。

19歳になった時、鍛冶銘を名のることになり、通常は師匠の名の一字を上に自分の名を下に付けるのですが、
そうすると是廣になり、國弘・義廣一門に間違われやすいので辞め、七代目石堂是一の「是」と八代目石堂是一が秀一とも名のっていたので、その「秀」を戴いて、「是秀」と名のることにしました。

また、江戸城を築いた太田道灌が鶴が三羽空に舞っているのを見て、千代田城とつけた故事を思い出し、千代も鶴も大変おめでたい「千代鶴」にしようとして名のったとか、またあるとき皇居の二重橋まで歩いて行くと、たまたま鶴が空に舞うのを目撃して「千代鶴」と名のることになったとの言い伝えもあります。しかしどれが定かであるのか分かりませんが、当時としては大変珍しい鍛冶銘として「千代鶴是秀」と名のることになったのです。

そして、従兄の九代目石堂秀一と一緒に若い二人は、大工道具鍛冶の達人として知られた先人たちの作品を研究しながら研鑽に勤めました。明治27年に八代目石堂の四女信と結婚しました。是秀21歳、信19歳でした。のちに、一男三女をもうけます。やがて、九代目石堂秀一と千代鶴是秀は大工道具鍛冶を代表する双壁になっていきました。

さて、ここまでが千代鶴是秀が独り立ちするまでです。ここから、千代鶴貞秀が生まれるまでの歴史があるわけです。しかし、名を継ぐことの困難さがこの先にもあらわれます。その一端は千代鶴の4人の弟子が1人も一人前まで育たなかったことにあります。

加えて、千代鶴是秀には長男加藤太郎がいました。のちの二代目千代鶴太郎です。太郎は小学校時代の成績は大変優秀であり、細工も驚くほど起用でした。高等小学校卒業後、父の下で鍛冶職として修行を行いました。また、姉・玉の影響もあって文学書や哲学書などを読んだり、西洋クラシック音楽などを聞くなど豊かな感受性の持つ若者でした。彫塑に関心も持っていた太郎は父の承諾を得て多摩美術学校に入りました。こうして鍛冶職を本業として研鑽を積みながら、美術学校で彫塑も学ぶことになったのです。

太郎は、昭和5年の23歳頃から大工道具問屋の涌井精一と父の賛同の下、運壽銘の鉋を本格的に鍛ちはじめました。 運壽銘は石堂家の由緒ある累代の譲り名であり、十代目石堂が病臥していたのでその号銘を太郎に継がせようとしたのです。こうして太郎は千代鶴二世として、また刀匠の名門石堂家の縁者として名工の血筋を引いていることを世に明らかにすると同時に、その名を決して汚してはならない運命を背負うことになったのです。運壽銘の鉋は高い評判を博することになりました。

しかし、このことが千代鶴家に思わぬ悲劇をもたらします。太郎は美術学校で彫塑の勉強を続けたかったのですが、両親の意思を拒むことができずに2年で止めました。しかし父の鍛冶職を継ぎ、それに専念することに迷い、彫塑の勉強を強く望んでいたのでひどく苦しみ悩みました。そして昭和8年1月、太郎は28歳の若さで伊豆大島の三原山火口に消息を絶ちました。

大正7年以降弟子をとらなかった千代鶴是秀ですが、懇意にしていた横浜の大工道具問屋涌井商店の紹介で、弟子入りを懇願した落合宇一(当時は涌井商店の商標である久國銘で鉋を鍛っていた。後の三代目千代鶴延國。明治28年静岡県三島生まれ)に、鉋造りのすべてを伝授しました。

その後、涌井商店と販売権利問題で久國銘が使えなくなってしまい、困った宇一は千代鶴是秀宅に相談に行ったところ、延國銘を授かりました。

さらに、終戦後昭和22年11月、千代鶴是秀は目黒本町の延國宅を突然訪れました。それは、終戦後まもなく元の住所に戻り、バラックを建てて鍛冶職を再開していた延國の鉋鍛冶としての情熱と技術を見込んで千代鶴三代目を継いでもらいたいと告げるための訪問でした。

翌昭和23年の1月、千代鶴是秀や関係者列席の下に延國は正式に名跡である千代鶴銘を三代目として襲名することになりました。このとき千代鶴是秀78歳、 延國52歳でした。以後延國は三代目千代鶴延國と銘を鉋に打ちました。そして昭和48年二人の息子に仕事のすべてを譲って隠居し、昭和53年72歳でこの 世を去りました。その後、平成4年1月細工場が火事になり、鉋鍛冶を再開することは二度とありませんでした。

となりますと、現在では千代鶴は途絶えてしまったように見えますが、そうではありません。二代目千代鶴貞秀が今も鉋を鍛えています。

その経緯は神吉義良(のりよし 明治41年兵庫県三木市に生まれ)が千代鶴是秀宅を訪ねたことに端を発します。神吉義良は鉋鍛冶をしていた兄に弟子入りし、昭和初期の不景気の時代、東京へ職人として上京し、ニ代目國弘の弟子である 國高や学童用の手工鉋を作っていた荒川区尾久の水無川という鉋鍛冶の下で働きました。そして昭和7年、三木に帰郷する前に何度か千代鶴是秀宅を訪ねまし た。千代鶴是秀は、弟子を取ることはいっさいありませんでしたが、訪ねて来た誰にでも暖かく応対していました。

三木とは、江戸の石堂の系譜と並び、播州三木鍛冶として、名工を多く輩出した地であります。その三木出身の神吉義良が千代鶴の名を襲名するのは戦後になります。戦後、復員してから鉋鍛冶を再開し、主に義千代という刻印銘で、鶴の型をした刻印や千代鶴直伝という文字印をそえて打ち込んでいました。

そして、昭和24年に千代鶴是秀から、かつて弟子に授けた銘である貞秀を進呈されました。神吉義良氏40歳の時でした。その際に千代鶴是秀から送られた言葉は

鳥滸布(おこがましく)ながら 御上京お土産として右名進らせ候御納め下されば本懐に御座候

と言います。弟子入りは許されなかったが、千代鶴是秀を我が師とし、上京し何度も必死に千代鶴家の門を叩き、自分の作品を見てもらえるようになったことがこの銘を進呈されるにいたるわけです。さて、この千代鶴貞秀にも先代の教えが染みこんでいます。

「名を恥ずかしめぬ鍛冶職になるという以上、決して金銭を頭に置いてはならぬこと。そして常に修業を怠らぬこと」

この言葉を私が思い起こしたのは、二代目千代鶴貞秀(神吉岩雄氏)の襲名の流れです。単なる世襲ではなく地元の有識者を含む広がりある第三者による評価、推挙によって二代目を決めていることです。

さて、長くなりましたがこの千代鶴貞秀氏の作が下にある乱菊です。

乱菊 鉋身 鉋台装着 作:千代鶴貞秀

 

 

乱菊 鉋身 裏金 作:千代鶴貞秀

 

乱菊 箱 鉋台(白樫)装着

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